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懐かしさの文学:『歩道橋の魔術師』

2021年1月17日(日)

共通テスト真っ只中ですね。
こんな状況下で、受験生も試験関係者も、本当にご苦労様だなと思います。

一方、演劇関係では、今週、こんな動きがあったことも共有しておきます。
WeNeedCulture 20210113 要請文
私は上手く表示できなくて(なぜか上半分が切れてしまう)、結局、ファイルをダウンロードして読んだのですが、皆さんはちゃんと読めるでしょうか

で、かく言う私の週末は、家族の買い物付き合ったり、台所の電気工事に立ち会ったりしつつ、残りの時間はコツコツ仕事をしているのですが…気分転換かたがた、本のご紹介でも。
(私の場合、最新刊を買うことは少なく、また何かのはずみで思い立って感想を書くだけなので、全般に情報が古いところはご容赦をm(_ _)m

   *   *   *   *   *

20210117歩道橋の魔術師_convert_20210117105017

『歩道橋の魔術師』
呉明益著/天野健太郎訳
白水社、2015年
(天橋上的魔術師、夏日出版社、2011年)

本書をいつ何で知ったのか、もう覚えていませんf^_^;)
ただ、私のスマホには、「読みたい本」リストが、「仕事関係」「舞台関係」「その他」に分類されてズラッと並んでおりまして、何かで直ぐ必要な本を買う際に、「他に、何かあったっけな」とリストを眺めて、「あ、また、この本に惹かれた」なんてことが2〜3回あったものを一緒に買うことが多いです。

じゃ、本書の何に惹かれたかというと…、そりゃ、まず、書名がイケてるじゃないですか(笑)。
「歩道橋」に「魔術師」がいるなんて、私の頭からは絶対に出てこない(T_T)

で、帯のキャッチを読んで、「懐かしい匂い」とか「ノスタルジックな」ってのは…あまり求めていないのですが、「よみがえる魔法の時間」「物売りが立つ歩道橋」「台湾で今もっとも旬な若手」なんて文句にフラ〜ッと吸い寄せられて、何か斬新なアイデアやインスピレーション、生命力なんかをもらえないかという(いささか意地汚い)動機で買った…ような気がします。

       *   *   *

作品の舞台は1970〜1980年代の台北、かつて繁華街の中核をなした「中華商場」というショッピングモール。
3階建てで横長のテナントビル8棟が南北1kmにわたって続き、各棟の2階が歩道橋でつながっています。

「連作短編」の形式をとる各小品は、この「商場」という店鋪(兼 住居)施設に暮らす子どもたちの目線を通して、老人から幼児まであらゆる生活者たちの濃厚な生き様を(しかし、静謐に)描き出し、そして折々に登場する「魔術師」がそこに幻想の粉を一つまみ振りかけます。

さらに読み進んでいくと、本書の作家と思しき<ぼく>が、幼少期に出会った「歩道橋の魔術師」についての情報を少年時代の友人・知人たちから聞き集めている…という緩やかなメタ構造が見えてきます。

このため本書は、「一つの場・テーマからなる連作短編」という以上に一作品としてのまとまりを持っているのですが、しかしメタ構造側ーーすなわち物語を聞き集める<ぼく>の現在のストーリーーーは多く語られず、かっちりした二重構造の作品とまでは言えません。

むしろ、二重構造がやんわり示されることで、語り手と聞き手の存在・関係が徐々に見えてきて、
すると、過去の回想とともに、その後を生きる「かつての住人たち」の「現在」もが、端々に浮かび上がってくる…
というほうが似合っているように感じます。

そして、もう一つ重要なことに、その人間模様は、
単に古き良き時代を懐かしんだり、
その喪失を悲しんだりするものではなく、

当時も苦く、切なく、胸苦しい思いがあったのであり、
現在まで続く人生もまた、やり場のない思いの積み重ねであり…、

それを、
いまだに解けない謎、あるいは記憶の陰に引っかかっている棘のような、あの「魔術師」の幻影を追いつつ、現実と幻想、記憶と空想の端境に描いたのが本作品…

ってとこですかねぇf^_^;)

       *   *   *

ちなみに、施設の様子はカバー写真からも窺えますが、Facebookで「中華商場」の歴史を紹介する動画が一番便利かも。
10分足らずの映像ですが雰囲気が非常によく伝わり、またナレーションが(当然ながら)中国語なので私は一言も理解できませんが、漢字のテロップを読むと何となくの情報は受け取れます(笑)。

あ、ただし、動画を先に観るべきかどうかは考えもの。
私としては、(もし「中華商場」を知らない方なら)まずは予備知識なしに本書の描写のみで本作品を味わい、それから動画を観たうえで再読することをお勧めします。

初読時には、簡潔で穏やかな描写が主要人物にレンズを絞り、切なく行き場のない心情を(時に美しく、時に恐ろしい幻想とともに)ひたひたと波打つように伝えてきます。

一方、画像・映像による知識を得た再読時には、余白部分にボッフンッと現れた人、人、人が行き交い、電車や車が引っ切り無しに走り過ぎ…という具合に、騒々しくてエネルギーに満ち満ちたシーンに激変します。
そんな喧騒のなかで、あるいは裏手へ一歩入った秘密の場所で、さらには誰もいない真夜中に、そして人々が見過ごしてしまう一瞬の<magic time>に、物語が埋め込まれているのです。

       *   *   *

…あれ じゃあ、どの辺が「懐かしさの文学」なんだって話を1つ2つ。

著者の呉明益氏は国立東華大学の教授を務めながら小説家でもあり、写真・イラストまで手がけるというスゴい人なんですが、私とほぼ同年代。
(だから「若手」というのは、ちょっと違和感も(笑))

本作品にも作者の経験が反映されているそうで、主要舞台も1970年代後半から80年代にかけてっぽい。
それゆえ…だけでもないですが、作品中にも、
村上春樹、ドラえもん、仮面ライダー、ヤクルト…、
『グレート・ギャッツビー』、ガルシア=マルケス、スタンダール、オースティン…、

…なんか、近い(笑)。
同じ時代、同じ空間を共有してきたような。

しかし、一方では、
(当たり前ですが)淡水河、敦化北路、大甲媽祖宮、外省人、大同電鍋、双十国慶節、陽春麺…など、台湾(・中華文化圏)らしい固有名詞が並び、倪匡、温瑞安、古龍といった私のまったく知らない作家の名が登場します。

この、
似ているようで少し違う、
知っているようで知らない、
そんな感覚って…と思っていたら、

あ、パラレルワールドじゃん

…と。
自分の幼少〜青年時代のパラレルワールドを見ているような気分に陥るのです。

ちなみに、上記の「中華商場」の歴史を紹介する動画なんかもう、<昭和>を観ているとしか思えない(笑)。

カバー写真も「National」(松下電器)がド真前に出ていますが、
汚らしいバラックが白く輝く近代的な商業ビルに取って代わられ、
しかし無数の人々の蠢きによって、あっという間に無秩序で猥雑な空間へと変貌していく様子が、
涙が出るほど<昭和>を想起させます。
台湾と日本の<近さ>をそんなところにも感じました。

もう1つの懐かしさは、私が「若い頃、こういう小説をよく読んだな」と。
穏やかで、ナイーブで、弱々しく社会的な責任を背負っていない人物が登場する物語。
とくに第1話を読んだ直後は、その甘ったるさとイノセントさに、正直「今、自分が読みたい物語ではない」と思ってしまいました。

ただし、第2話にも魔術師が出てきて、「あれ、そういう仕掛けなの」と別の興味が湧いて読み進めるうちに、前述のように複雑な要素が混ざり合い、それでも生き続ける生命力が糸を伝うように染み上がってくると、最近の私の欲求にもまずまず応えてくれていて、最後は気持ちよく読み終えることができました。

その理由の1つとして得心したのが、「訳者あとがき」で天野氏が「どういうものを指すのか〜よくわからない」と断りつつも挙げたキーワード「マジックリアリズム」。
(本書は翻訳企画の提案当時、「三丁目のマジックリアリズム」というコードネームで呼ばれていたそうです)

ああ、そうか。そっちとも、つながっているんだ」と(笑)。

というわけで、私個人としては、当初に期待した「斬新な」何かを手に入れるという下心は叶わなかったものの、「読んでよかったな」と思える作品でした。

   *   *   *   *   *

この呉明益氏ですが、本書の後、『自転車泥棒』という作品が、やはり天野氏によって翻訳されているようですね。
本書のなかでも映画『自転車泥棒』への言及がありましたが、映画とはまったく異なる作品のようです。

個人的には、「訳者あとがき」で紹介されている『睡眠的航線』『複眼人』を早く翻訳出版してほしいと思いましたm(_ _)m

それから、この『歩道橋の魔術師』は台湾でテレビドラマ化され、来月から放送されるとの由。
そうだろうな。
本書を読んだとき、とても(演劇的というよりは)映像的だなと感じましたので、テレビドラマはピッタリだと思います。
日本でも観られないんでしょうかね

…あ、それで思い出した

本書を読んで、『恋恋風塵』を観なきゃと思っていたのを、すっかり忘れていました。
また直ぐ忘れそうだから、「観たい映画」リストに入れておかなきゃf^_^;)


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巣籠もりの文学 おまけ:『ムーン・パレス』

2021年1月1日(金)

新年、明けましておめでとうございますm(_ _)m
この2021年が皆様にとって幸多き一年となりますように。

   *   *   *   *   *

実はですね、

「巣籠もりの文学」と銘打ったとき、最初に思い浮かんだのは本書だったんです。
私のなかで巣籠もり(というか、引き籠もり)といったら、コレ。

なのに、どこに隠れちゃったのか…

なにせ最後に読んでから(たぶん)20年近く経っているし、
前回、本を廃棄したとき、捨て…はしないまでも、棚にデタラメに突っ込んじゃったかで見つからず、
仕方なく、次点繰り上げで『ロビンソン・クルーソー』にしたのでした。

が、

先日、ちょっとしたトラブルがありまして(後日、たぶん書きます)、
気持ちが逃避的になったところで、

あ、あった。

と見つけてしまいましたf^_^;)

いわゆるセレンディピティというヤツですね。
でも、二十数年振りに読み直したら、やはり面白かったので、
せっかくだし、新年の抱負と絡めて「おまけ」でもと(笑)。

       *   *   *

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『ムーン・パレス』
ポール・オースター著/柴田元幸訳
新潮文庫、1997年(ハードカバー版は1994年)

舞台は1960年代末のベトナム戦争に喘ぐアメリカ、(主に)ニューヨーク。
コロンビア大学に通う主人公マーコ・スタンリー・フォッグ(M. S. フォッグ)は、父を知らず、幼くして母に死なれ、そして自分を育ててくれた伯父の突然の死によって、人との結びつき、すなわち世界との結びつきを失います。

彼は、
支出を極端に切り詰め、空腹に苛まれながら、
伯父から贈られた大量の蔵書を読み、売り、その金で食い、
肉体と精神が蝕まれるに任せ、
金が尽きたところでセントラルパークの住人となり、
飢えと、精神的自壊と、やがて熱病に苦しみ、
生死の狭間を彷徨うなかで…、

…ジンマーとキティとによって救われます。

       *   *   *

この間、
彼はともかくも大学へ通い、単位を取得し、伯父との約束どおり大学を卒業しているので、
世間で言われるところの「引き籠もり」とは違うでしょうが、
精神的には壁の内側に閉じ籠もり、世界から完全に孤立してしまいます。
そして、黙々と伯父の本を乱読し続ける…

…この感じ、僭越ながら私自身にも多少は覚えのある心境で、
学校を卒業した後や、転職をしたとき、
貯金が減っていくのを横目で眺めつつ、
部屋に籠って延々と本を読み続けていたんですよね。

ただし、
きわめて幸運だったことに、
私には、それなりの数の人々が常に手をつないでくれていて、
挫折と失望を抱えて自壊へと沈み込むには、
周囲があまりに陽気で騒々しかった(笑)。

今の私が、上手くいかない毎日をわりと前向きに生きていられるのは、
そんな人々とのそんな経験に支えられているからなのかもしれません。

というわけで、本書は、
絶望と救済の物語であり、
自分(のルーツ)を探す巡礼の旅であり、
ささやかながら私自身にとっても重なりを感じられる、
ほろ苦い青春小説なのです。

       *   *   *

脱線しましたf^_^;)

さて、
ジンマーとキティによって再び世界に結びつけられたマーコは、
エフィックス老人とミセス・ヒューム、
さらにソロモン・バーバーと出会い、
彼らの物語に触れ、しばしば過ちを犯し、いくつもの離別と死別に遭遇します。

人生は、いつも間違いだらけで、御し難い。
----------------------------------
僕らはつねに
間違った時間にしかるべき場所にいて、
しかるべき時間にまちがった場所にいて、
つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、
ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。

失われたチャンスの連鎖。
断片ははじめからすべてそこにあった。
でもそれをどう組み合わせたらいいのか、
誰にもわからなかったのだ。
----------------------------------

そして旅立ち、再びすべてを失い、地の果てに辿り着いたとき、
主人公は、自らがようやく出発点に立ったことに気づきます。
あの「月光」の下にたたずむ、一個のシルエットのように。
----------------------------------
僕は世界の果てに来たのだ。
この向こうにはもう空と波しかない。

ここから僕ははじめるのだ、と僕は胸のうちで言った。
ここから僕の人生がはじまるのだ、と。
----------------------------------

そう、この物語は、世界との結び目を失った1人の若者が、
空っぽの空間に自らの出発点を見つけるまでの物語なのです。

   *   *   *   *   *

著者が本作品を「コメディ」と称するように、
物語は悲惨さとともに滑稽さに満ち満ちています。

マーコは結局、
何も解決できず、繰り返しすべてを失い、
終わり方も、
美しくはあるけれども、爽快とは言い難い。

それでも、
愚かさと浅はかさに満ちた間違いだらけの人生を
一歩一歩踏みしめながら進んでいけるような、
前向きで充実した気分を味わった2020年最後の数日間でした。

そんなわけで、
本作とこのタイミングで再会できたことに感謝し、
この2021年は、

人間万事塞翁が馬

を抱負に生きていきたいと思います(笑)。


あ、
ちなみに、座右の銘は、

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

です(笑笑)。


それでは皆さん、
本年もよろしくお願い申し上げますm(_ _)m


巣籠もりの文学 その3:『完訳 ロビンソン・クルーソー』

2020年12月26日(土)

私の会社も社会的取組みに参画するとかで、仕事納めを前倒しして昨日25日(金)で年内はおしまい。
ただし、「どーしても28日(月)に出勤せねば」という人も若干数はいて、私もそんな人たちのためのカギ当番ということで、出勤予定…
という以上に、私こそ仕事が溜まっている「どーしても出勤せねば」組でして、28日だけでは終わらないと分かっているので、本日も休日出勤。
いやぁ、やっぱり休日出勤は仕事がはかどりますね〜。
(こういうヤツを、社畜と呼ぶんだな)

       *   *   *

で、予定していた仕事を片付けて、帰りにデパートへ。

ええ、そうです、ハタと気づいてしまった嫁さんへの●●●マスプレゼント(笑)。

このところ、子どもの習い事なんかの送り迎えで寒そうなので、何か暖かいものをと、そんな感じの売り場へ。

と、陳列棚に向き合った途端、背後からおばちゃん。

プレゼントですか

は、早いっ

店員に声をかけるのは、もうちょっと、あれこれ物色してからにするつもりだったのですが、よく考えたら、もう閉店間際。
仕方なく()、こちらも用件を伝えて、サッサと品物選び。

さすがベテランだなと感心するのは、「買うか、買わないか」ではなく、たちどころに「どれを買うか」モードに持っていく、その話術。

私の性格としては、通常なら逃げモードに入っちゃうところですが、今回に限っては何としても残り15分で best choice に辿り着かねばならないため、むしろ種々リクエストを伝えて、

派手すぎず地味すぎず、
ちょっと特別感はあるけど普段使いできて、
本人が選ぶだろう色味よりは気持ち冒険気味の、

そんなところを見繕ってもらいました(笑)

でもって、とりあえず、

mission completef^_^;)
(なぜか、息子が一番盛り上がってました)

   *   *   *   *   *

さてさて。

「巣籠もりの文学」シリーズですが、もう1つくらいは選ばないとカッコがつかないかなと、少し趣向を変えて、こちらを選びました。

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『完訳 ロビンソン・クルーソー』
ダニエル・デフォー著/増田義郎訳・解説
中公文庫、2010年(ハードカバー版は2007年)

ま、彼の場合、自分から「籠もった」ってわけじゃないですけど、何しろ27年間も籠もってたわけだし、結果として「籠もって暮らす人たちを描いた物語」にはなってるかなとf^_^;)

でもって、昨今のコロナ禍で再注目されるD. デフォーの代表作という意味もあり、取り上げてみました。

       *   *   *

あまりに有名なので、『ガリバー旅行記』と同じくらい、誰しも幼少時に<子ども向け版>を読んだことがあるでしょうが、やはり『ガリバー旅行記』と同じくらい、大人向けの完訳版は読まれていない作品ではないでしょうか

ただし、ともに社会派の作品ながら、『ガリバー旅行記』が社会批評(風刺)であるのに対し、『ロビンソン・クルーソー』は国威発揚…とまではいかなくとも、海外進出へのポジティブなメッセージを含んだ「経済小説」もしくは「グローバルビジネス書」でもあるという点で、両者は大きく異なると思います。

ちなみに、子ども向け漂流・冒険ものというと、私は『十五少年漂流記』(ジュール・ヴェルヌ)を夢中になって繰り返し読んだものですが、こちらはまさに「冒険もの」ですね。
(なので、子どもの頃は断然こっちのほうが好きでした)

この『クルーソー』も幾つかの版がありますが、中公・増田版は増田氏による解説が丁寧で詳しく、面白いのでお勧めです。

では、なぜ「冒険小説」が「経済小説」なのか、という辺りを、増田氏の解説に沿いつつ、若干ご紹介。

       *   *   *

本書はある船乗りの回想録として出版された、という体裁をとります。
主人公の名はロビンソン・クルーソー。生まれは1632年、イギリス・ヨーク市の裕福な中流家庭。
ロビンソンはクルーソー家の三男として何不自由のない、しかし無為な生活を送っています。

「海へ出たい」「海外へ生きたい」と熱望しながらも、両親の強い反対を受けて逡巡するロビンソン。
しかし、ある日、父親の船でロンドンへ行くという友人に誘われ、両親に別れを告げることもなく船に乗ってしまいます。
これが1651年の(呪われた)9月1日、ロビンソン19歳のことでした。

こうして船乗り兼貿易商の道を歩み始めたロビンソンは、
ギニア交易で一儲けし、
ところがサレ(現モロッコ)でムーア人の海賊に捕らえられて奴隷となり、
脱走してブラジル行きのポルトガル船に助けられ、
そのまま南米に行き、現地で農場経営を始めます。

そして、事業を順調に拡大していた1659年のやはり9月1日、
安価な農場労働者を調達しようと奴隷貿易に出発したところで、
船が難破し、オリノコ川(現ベネズエラ)河口からほど近い(と思われる)無人島に漂着する…

こうして、かの有名な27年に及ぶ無人島生活が始まるわけですね。

       *   *   *

デフォーという人物はビジネス経験もあったようで、なかなか計数感覚に優れ、随所に<数字>や<品目名>、そして貿易・取引の詳細にこだわった記述が出てきます。
(そういえば、『ペスト』でも、どの地区で何人が死んだとか、やたら数値情報を載せていますね)

最初のギニア貿易では、40ポンドを元手におもちゃや雑貨を仕入れ、それをギニアで売って5ポンド9オンスの砂金を購入、それをロンドンで売って300ポンドを手に入れます。

また、ブラジルでも、小さな農地を購入して最初は食料生産に励み、それからタバコ、さとうきびの栽培に手を広げたり、ロンドンに預けておいた財産のうち100ポンド分を使い、自分で使う農機具のほかイギリス製の衣類・織物などを輸入し、それを売って資金を増やしたり。

当時、当然ながら、まだ海底ケーブルによる大陸間電信網は存在しませんし、細かい荷為替のやりとりなども出て来ないのですが、委任状などを使い、また商人や貿易船の船長を通して、高度な取引が行われていたことが窺われます。

       *   *   *

そしてもちろん、圧巻は無人島での生活で、これはもう、ほとんど農場経営あるいは植民地経営のミニチュア版と言っても過言ではありません。

鶏のエサ(ネズミに食われてしまっていた)の残りカスを捨てたら、そこから大麦と稲が生えたのを僥倖とし、島の気候・季節を理解したうえで穀物栽培を始め、
野生のぶどうから干しぶどうを作って保存食&栄養補給源とし、
野生のヤギをつかまえて家畜とします。

穀物栽培に、果樹園経営、そして畜産と、これらに関する記述が実に細やかで具体的・実践的なんですね。

具体的と言えば、洞窟を基盤とした住居の塀づくりや、島の周辺をカヌーで巡る際の潮流に関する記述も実に細かくリアリティがあって、デフォーはどうやってこれらの知識を得たのだろうかと、不思議に思うやら感心するやら。

       *   *   *

そして、もう1つだけ紹介しておきたいのが、時代背景との関わり。
17世紀半ばと言えば…、

アルマダの海戦でイギリスがスペインの無敵艦隊を破ったのが1588年。
ピルグリム・ファーザーズがニュープリマスに上陸したのが1614年、
第二次英蘭戦争により、ニューアムステルダムがニューヨークになったのが1667年。

つまり、スペイン・ポルトガルが海洋覇権を握っていた時代から、後発のオランダ、そしてイギリスが積極的に海外へ進出していった時期と重なります。

ただし、南米はまだスペイン・ポルトガルが圧倒的に支配しており、上述の増田氏によると、デフォーはこの中米カリブ海にイギリス進出の拠点を作るべし、という思いを込めて、この地にロビンソンを漂着させたと主張します。
実際(というのも変ですが)、帰国の途につくロビンソンは、残った英系人がこの地に植民できるよう計らうわけですが、それこそがデフォーの期待を表しているとも言えます。

そこで増田氏は、ロビンソンをして

「正常なイギリスのブルジョア社会から逸脱した流れ者のアドヴェンチャラーではなく、むしろ17世紀当時のイギリスの海外商業活動の生み出したもっとも典型的な型のひとつを代表している」

と喝破し、

「オリノコ川の入口を望み見るロビンソン・クルーソーの眼差しの中には、そこ南アメリカ本土にイギリスの植民地を獲得したいという、ウォルター・ローリ以来のイギリス人の期待と願望がこめられていたのである」

と結ぶのでした。

そうした背景を踏まえると、本作品が、無人島に隔絶された個人の物語のように見えて、実は17世紀の国際政治経済を色濃く反映していることが垣間見え、何倍もおもしろく読むことができます。


大人になってこそ、読むべき1冊かなと。


…あ、何となく、まとめちゃいましたf^_^;)


巣籠もりの文学 その2:『カールシュタイン城夜話』

2020年12月19日(土)

本日は、部活動で怪我をしたという娘を嫁さんが病院に連れて行く関係で、私は息子のサッカー練習の送り迎えを命ぜられたのですが、その他は自宅で、ずっと引っ張っている仕事の続きを。

が、なかなか終わりが見えない仕事に手をつける気力が湧いてこないので、その前に書きかけだった記事を仕上げることにしましたf^_^;)

何をどう書こうかと、いろいろ構想していたはずなのですが、途切れ途切れに書いているうちに忘れてしまい、いつものように取り留めのない記事になってしまいましたm(_ _)m

   *   *   *   *   *

「巣籠もりしている人の物語」第2弾ですが、ちょっと悩んで、こちらをチョイス。

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『カールシュタイン城夜話』
フランティシェク・クプカ著/山口巖訳
風濤社、2013年

ネットで検索すると、同名の画家さんがヒットするのですが、まったくの別人です。
訳者の解説や著者のあとがき、略歴などから簡単に紹介すると…、
----------------------------------
1894年、プラハ生まれ。
1921年カレル(プラハ)大学哲学部(文学部に相当)に入学するも、14年に第1次大戦が始まると召集されて東部戦線へ。
1915年にロシア軍の捕虜となり、18年()に収容されていたベレゾフカの収容所をチェコスロバキア軍が占領すると、同軍に入隊し、イルクーツクへ。
1920年にYMCA(キリスト教青年会)に就職し、同年ロシア人女性と結婚。
1921年に祖国に帰還、大学に戻り博士号を取得。
(このあたり、よく分かりません)
卒業後、ジャーナリストとして活躍、1929年には『プラーグ報知』の主筆に。
しかし、
1938年ナチスドイツによりズデーデン併合、翌39年にはプラハを含むボヘミア・モラヴィアが保護領に。
クプカもゲシュタポに捉えられ、40年まで投獄。
(1941年から終戦までの経歴もよく分かりません)
1943年夏に本作品を執筆し、翌44年に(ナチスの検閲をかいくぐって)出版されます。
そして戦後、1954年に本書の第2版がチェコスロバキア作家協会によって刊行されました。
本作がクプカ作品の日本初紹介、その翌2014年に『スキタイの騎士』が翻訳出版されています。
(私はまだ読んでいません)
----------------------------------

ざっと、こんな感じで、日本ではあまり紹介されていないらしく、私も、本書に出会うまで著者のことはまったく知りませんでした。
じゃ、何で買ったのかというと、(もう、よく覚えていませんが)たぶん、このカバーに惹かれて、いわゆる「ジャケ買い」したのだと思います。
(カバー表(左側):<prisoner-1>、裏(右側)<water tower>、ともに作田富幸作)
なんだか、よく分かりませんが、無性に惹かれるんですよね、これ。

       *   *   *

で、けっこう大事なポイントが、本書の刊行年<1944年>です。
当時はナチスドイツの占領下、人々が祖国の悲運を嘆くなか、本作は輝かしきカレル四世をめぐる物語を提供し、人々をしてチェコへの誇りと希望を取り戻させる作品となった…ようです。
(「第2版への著者あとがき」では、デッサウの収容所で本書が回し読みされたというエピソードも紹介されています)

       *   *   *

じゃ、「そのカレル四世って誰」って話ですが、「神聖ローマ帝国カール四世」とか「金印勅書」「7選帝侯」などのキーワードを聞くと、「ああ、アレ」と思い出す方もいらっしゃるかと思います。

「神聖ローマ帝国」というと、ざっくり「ドイツ」というイメージですが、カレル四世はルクセンブルク家の当主で母方はチェコのプシェミスル家の出身、カレル四世もプラハで生まれ、ボヘミア・モラヴィアを統治するのですが、1346年に神聖ローマ帝国の皇帝となり、48年には帝国の首都をプラハに移します。
したがって、チェコの人々にとって、この時代は「プラハがヨーロッパの中心」だった輝かしき時代なわけです。

       *   *   *

とまあ、背景説明を終えたところで、ようやく本書の内容に入りますm(_ _)m

時は1371年4月、55歳となる皇帝カレルは毒を盛られ、瀕死の状態に陥ります。
(「毒を盛られ」という部分の真相は、作品の後半で明らかにされます)
侍医ヴィーテク卿による治療のお陰で一命を取り留めたものの、皇帝カレルはすっかり消耗してしまったため、プラハ近郊のカールシュタイン城に引き籠もり、療養することにしました。
(カールをカレルと呼ぶなら、カールシュタイン城もカレルシュテイン城と呼ぶべきじゃないかと思うんですが、諸々詳しくないので、よく分かりません)

このときお供をしたのが、

侍医ヴィーテク卿
宮廷執事長ブシェク卿
司教座聖堂参事会員イェシェク師

で、この3人が皇帝の無聊を慰めるべく、毎夜、話をする…しかも男たちに相応しく、話題は「女」…。

こうして、カレル四世がカールシュタイン城に到着してから聖霊降臨祭までの7日間、気の置けない重臣3人(と、ときに皇帝自ら)が、パオラに始まってディーナを経てアネシカまで計21話の「女」たちをめぐる物語(女性の数は、必ずしも1話1人ではありません)を披露し合うという、「チェコ版千夜一夜物語」が繰り広げられるのでした。

       *   *   *

そうそう、思い出しました。
本書の帯にある「男集まれば女のこと〜」というのも、本書を買った理由の1つだったと思います(笑)。

しかし、語り手は神聖ローマ皇帝とその重臣という帝国の中枢を担う人たちで、彼らがナチスの占領に苦しむチェコの人々のために、過ぎし日の栄光を背負って物語るわけですから、お下品であけすけな話になるはずがない。

作者クプカはボッカッチョを強く意識しており、各物語には市井の人々も多々登場しますが、その語り口は実に格調高く知性に溢れています。
「枠物語」という構造を模倣していても、『デカメロン』とは、そこが決定的に違います。
(『デカメロン』は、うら若き紳士淑女の言葉こそ奥ゆかしいですが、いざ物語が始まってしまえば、もう何でもあり(笑))

あ、だからといって堅苦しいとか退屈だとかというわけではなく、(説教臭い話もなくはないんですが)清々しかったり、切なかったり、バリエーションも豊富で読後感も気持ちいい。
それぞれ独立性の高い作品から成る「短編小説集」的な趣もあって、それなりに読み応えがあります。

とくにカレル4世が語る初恋の女性や悲運の妻たちの物語は、瑞々しく清潔感のある仕上がりになっています。

       *   *   *

最後に1つだけ。

神聖ローマ帝国時代というのは、教権と皇権、つまりローマ教皇と帝国皇帝が激しく衝突して互いの優劣を争った時代で、イタリアはその主戦場として各都市が教皇派と皇帝派に別れて対立し、しばしば戦争していました。
(『デカメロン』でも、そんな言及がしばしば見られます)

結果、皇帝はドイツとイタリアを頻繁に行き来するんですね。
(この辺りは、U. エーコ『バウドリーノ』でよく描かれていますね。ただし、登場するのはバルバロッサことフリードリヒ1世ですので、時代はもう少し遡ります)

で、王子だったカレルがイタリアのルッカでお祭りに参加するのですが、その淫靡と放蕩にうんざりし「地獄絵さながら」と表現するくだりが出てきます。
これも、ボッカッチョを読んでいると何となく想像できて、辟易しているプラハ人の渋面が思い浮かび、つい笑ってしまいます。


ただし、その後で彼もまた「雌馬に噛まれる」ことになるのですが…。


巣籠もりの文学 その1:『デカメロン』

2020年12月5日(土)

本日は、息子のサッカーの練習試合ということで、早起きして遠出の準備をしていたのですが…、

天気予報どおり「みぞれ交じりの冷たい雨が降ったり止んだり」で、あえなく中止となりました(T_T)

ちょっと拍子抜けしましたが、試合の合間に飲むつもりだった魔法瓶のコーヒーをカップに注ぎ、
(持ち帰った仕事には結局、手をつけることのないまま)
本日は、ウチから一歩も出ることなく、読書の日にしてしまいましたf^_^;)

   *   *   *   *   *

さてさて。

このコロナ禍で行楽に出かけられなくなって「巣ごもり」なんて言葉が流行りましたよね。
(それが現在「Go To ●●」に置き換わって、第3波を迎えているわけですが)

私も、観劇できない、呑みにも行けないということで、以前に比べて週末を自宅で過ごす時間が長くなり、半分は持ち帰った仕事をこなしつつも、その仕事から逃避するように読書に耽溺したりする機会も増えました。

お陰で、書棚やテーブルに積まれていた「買ったけど、まだ読んでない本」や新しく買った本をそれなりに読むことができたので、観劇日誌代わりに、そんなことでも書こうかと。

というわけで、「巣籠もりの文学」と称しまして、「籠もって暮らす人たちを描いた物語」を2つ3つ、ご紹介。

       *   *   *

その1

この企画の切っ掛けが切っ掛けですので、やはり第1弾はこちらでしょうね。

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『デカメロン』
ボッカッチョ著/平川祐弘訳
河出文庫、2017年(元の一巻本は2012年)

ご存知の方も多いでしょうが、
舞台は1348年のイタリアはフィレンツェ。
あのペスト(黒死病)が広くヨーロッパに蔓延した年ですが、東西交易の担い手だったイタリアの諸都市国家、わけでもフィレンツェはオリエントからペストが伝染して来る玄関口の1つだったんですね。

そこで、ペストの難を逃れようと、うら若き7人の淑女と3人の貴公子が、人里離れた屋敷に引き蘢もり、美しい自然のなかで楽しく飲んで歌ってお話して、2週間ほどを過ごす、というお話。

で、物語のメインは「お話」の部分で、決められたお題について10人が1日1話ずつ話し、10日間で100の物語が描かれるので「デカメロン(十日物語)」となります。
(水曜日から始まって、2度の金曜・土曜は安息日で話もお休みなので、2週間かかることになります)

       *   *   *

これね〜、遠〜〜い昔にパラパラッと眺めたんですけどね〜、
もう、読みにくいし、ダラダラ回りくどくって、いったい何が面白いんだと、
早々に断念したことを覚えています。

でも、この度、せっかくの機会だからと思って再挑戦しました。
河出版を買ったのは、訳がそこそこ新しくって値段も手頃だったから…

…なのですが、この平川訳、実に読みやすいです
言葉が平易で、文章はリズミカル、表現が生き生きしているので、なぜ昔「つまらない」と思ったのかが不思議なくらいです。
丁寧な注記を読んでも、原典や先行訳(英仏独語訳を含む)の吟味はもちろん、近年のボッカッチョ研究を渉猟して翻訳にあたっていることが伝わってきます。

そして圧巻は各巻末に付された解説で、これだけで1冊の紹介本になる(というか、そのつもりもあったらしい)ボリュームと内容。

まさに、「心血を注ぐ」って感じです。

もっとも、こちらが歳をとって、内容を楽しめるほどに知識が増えたという面もあるかもしれません。
大学受験レベルの暗記知識だけだと(たぶん)面白くないでしょうが、当時のイタリアを取り巻く政治・経済・社会史的知識が多少なりとも頭に入っていると、人々の宗教・風俗・慣習からイタリア諸都市間の教皇派vs皇帝派の対立、背景にある国際経済環境などまでが自然に伝わってきて、「ナマ」な空気を味わえます。

とはいえ、お題を決めて物語るのが基本形なので、「また、このパターンか」とマンネリを感じることがないわけではありません。
そんなときは、冒頭のあらすじを読んで、面白そうなら丁寧に読み、そうでもなさそうなら、話の設定だけ把握して途中を読み飛ばし、最後のオチを確認する、という読み方でもそれなりに楽しめます。

       *   *   *

それにしても、このボッカッチョ『デカメロン』、
先達となるダンテ『神曲』や、
同じ系統に連なる英国のチョーサー『カンタベリー物語』に比べると、
どうしても文学的誉れに欠けるというか、評価が低いというか。

決して、そんなことはないと確信しつつ、しかし宜なるかなとも思うのは、やはり、あまりに大衆的すぎるからでしょうかね。
「大衆的」と言うと穏やかですが、要するに、まあ、お下劣というか、下ネタ満載というか(笑)。

もちろん、語り手の10人はお年頃揃い(一部に恋人同士を含む)にもかかわらず、フシダラな行為は一切なし。
エデンの園もかくあるやという清らかさです。

しかし、物語となると、何せお題に「女たちが夫の留守にやらかした悪さの数々」(第7日)なんてのが出てくるくらいで、その他のお題でも、性におおらかというか、性の悦びに貪欲というか、セリフもあけすけで、人々の暮らしぶりが赤裸々に描かれます。
(また、訳者がそのあたりも大真面目に考察し、注釈しています)
「著者結び」で、ボッカッチョが言い訳(反論)を書いているのですが、そりゃ批判も受けるだろうなと(笑)。

   *   *   *   *   *

最後に、我が身に照らして、もう一言だけ。

これって、タネはいろいろあるんでしょうが、それでも、1人で100話を書いてるわけです。
素直に、すごいなと。

1つのお題に対するバリエーションという形で話が連なるため似通った話も出てきますが、
チョーサーと違って語り手の社会的所属階層が1つなので、話題も登場人物も狭められますし、
ダンテのように古今の人物を自在に登場させることもできない。
(幽霊は出てきますが…カバー挿画参照)

もっとも、オリエント/イスラム世界が物語のなかで当たり前に隣接していて、そうした文化的・人種的な豊かさは、ボッカッチョの強みかもしれません。

いずれにせよ、これだけの物語を書き連ねるというのは、まさに「偉業」と呼ぶ他はないわけで…、

私も、死ぬまでに100話くらい書きたいものだ、

と、心のなかでこっそり思いました。

その2へ続く

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